自由民権運動についてのリポートです。 あくまで参考にしてください.
一八七三年、板垣退助らは武力で朝鮮を開国させるか、させないかを議論した征韓論争で敗れ下野した。翌年に板垣らは、東京で愛国公党を設立し、明治政府の藩閥官僚主義に対する批判と民撰議院の設立を求める民撰議院設立建白書を提出した。イギリス人のブラックが、民撰議院設立建白書を新聞に取り上げ、日本中で民撰議院設立についての論争が起きた。政府は民撰議院を設立することに対して、まだその時期ではないとして認めなかった。愛国公党は、江藤新平が佐賀の乱に加担したために崩壊した。
西郷隆盛と板垣らが、明治六年の政変で下野したために、政府の影響力が弱まっていたので、一八七五年、伊藤博文は下野していた板垣と木戸孝允と大阪で話し合い、段階的に立憲政体を構築すること、政府に二人が復帰することを決めた。政府は、立法機関である元老院と審判権を持つ大審院と地方官を集め、話し合う会議をすることが記載された立憲政体の詔書を発表した。しかし、必ずしも実行する必要がなかったために、板垣は参議を辞任した。
民撰議院設立に対する意見が様々な新聞で取り上げられ、自由民権運動は高揚した。一八七五年、政府はその高揚の対策として、新聞...